太平洋食堂

太平洋食堂旅行記

日時2011年05月22日      テーマ熊野・新宮・太平洋食堂

熊野行 その2嶽本 あゆ美

 大逆事件の犠牲者・型破りな明治の医師であった大石誠之助については、一昨年に毎日新聞で辻原登氏が、新聞小説「許されざるもの」として連載したので少々お耳にした方もいるのでは。悔しいので言っておくと、私はもっとずっと前から誠之助病でした。佐藤春夫記念館では辻原さんの資料などを見せてもらい、本日の予定を立てて市内を案内して頂きました。何の変哲もない街角に、誠之助の記念碑が立ってるだけってのが、私には何というか百年前にここで、誠之助が診療してたり、食堂で料理を作ってたりっていうのが目に浮かぶようで、彼を偲んで気持が波立ちました。まあ所謂、萌えですけど。

 午後はお寺や熊野川を回って、大逆事件犠牲者と中上健次の墓参りをして、神倉神社にも行きました。途中からものすごい雷とにわか雨で、あまりの雷鳴に私は南谷共同墓地でこけました。ズボンに穴が開くほど、ズベっと滑ったのです。皆さん、呆れていたようです。この墓地は、二つの山とその間の谷が全部お墓で埋まってる場所です。
すごいですよ、山全部墓。しかも江戸より前からの墓が積もり積もってる。はっきり言うと私は怖かったんですよ、雷鳴が。来るなと言われているような、歓迎されてるのかどっちだか分からないような、テンションを感じたんですな。あんまり霊的な場所ばかりだったので正直、気疲れで死にそうでした。

 夕方、中上健次の世界に出てくる、かつて路地だった場所に行きました。臥竜山として路地があった山が、そっくりそのまま削り取られて区画整理された現状は、乳癌で切除された手術痕を目の当たりにさせられという感じ。それによって人々の生活は明らかに改善されたのです。何か感じるとしたら、それは蜃気楼を待ち望むような旅行者の傲慢でしょうね。
 健次と同級生だった方・大江さんの「くまの茶房」にお邪魔しました。前は「くまの書房」として知られたその店は、今では茶房になりました。健次ファンにとっては札所みたいなもんです。とても落ち着いた素敵なカフェで、いつまでもそこで彼女と話していたかったですね。

 夕方からは新宮市の大逆事件を顕彰する会の皆様と懇親会でした。いやはや圧倒されましたね。多士済済、いつ果てるとない議論と雑談の中に明治の昔も、こんな風に新宮の人はワイワイガヤガヤやっていたんだろうなと、羨ましくもなりました。
「何故、あなたは顕彰活動に取り組むのですか?」という私の生硬な問いかけに、会の中の女性は笑いながら「ほんまは奈良にお花見しに行こか思うてたんやけどな、雨が降ってな、水平社資料館に行ってもうたんやよ。まあただ券もあったしな。それでズルズルと今日まで・・・」「あ、明日は環境問題研究会やなあ・・・・」

 大逆事件の犠牲者の名誉回復や、顕彰活動を主導しておられる、八十歳を超す柔和な二河会長のお話。
「いや、なんの高知の中村の秋水に負けるか!思うて、何が中村じゃあ、こっちだって名誉回復やったるわ、てなわけですわな。わしはもう少し時間掛ると思うてたんやけど、議員らがな、先生、判子押させて下さい!(名誉回復の議決をとらせて)下さい!言うてな、(名誉回復)はすぐ決まった。」

 何というか、保守も革新も集まるというか混在しながら、大石誠之助への想いが名誉回復を成し遂げたということでした。
 ちなみに今年の、「名誉市民」は惜しい処で否決されたそうです。
 タジタジとなった私は毛の三本足りない孫悟空のようでした。

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