太平洋食堂

太平洋食堂旅行記

日時2012年09月23日      テーマ熊野・新宮・太平洋食堂

太平洋食堂からの眺め嶽本 あゆ美

 今週末の月一リーディング、戦々恐々です。ようやく一幕の改稿を終えましたが、結局の所、自分はこの問題にどういうコミットをしたいのか?という自問自答に明け暮れました。

 私は迷信深い無神論者です。こないだ、「スリー・ピース」で、法蓮華経などをやってましたが、あくまで子供時代の慣習、中身も哲学も馬の耳には単なる「鳴りもの」と同じでしかありません。大学時代は哲学の美学に傾いていましたが、何というか書物を読んで「ほ~」とは思いながらも、帰依?する全面的な安心やら信頼というものを持った事がありません。倫理、宗教、哲学、主義というものの中に共通して流れる、人間存在の不確かさなどには共感しますが、まあ、眉つばなんですよ。

 というわけで不信心者なのですが、あの明治という時代、あらゆる価値と哲学が溢れ出した時、自分は何を信じるのか?選択するのか?が、ものすごく迫られた時期だと思います。仏教というものは幕藩体制下ですっかり体制に染まり、あらゆる信教の自由が許されるなら、誰もが清新なものへと傾いたのでしょう。その頃のプロテスタントというものは、最もよい時代だったと大石誠之助は言っています。明治の末年にはもう既にそれらも手垢がついていたというのは彼の弁ですが、タブーが消滅していく世の中で、労働と祈り、清貧を尊ぶプロテスタントというのは、儒教が廃れる中、あらたな日本人の精神の大きな受け皿になったのでしょう。
 そういう崇高さを尊ぶ人々の心は、戦争に勝って一等国になる、自由主義経済の嵐の中で富を得たいという風潮の矛盾を、許容できなかったのではないでしょうか。

 ある日ふと、保育園のママ友が日常の付き合いの中で、私がこういうものを書いていると知り語ってくれたのですが、彼女の亡くなられた父親が、第二次世界大戦後の廃墟の中で、無教会派のプロテスタンティズムを自己との葛藤の中で獲得したという話を伺いました。平たく言うと、自分と神がどうあるのか?私と神の関係、それ以外のものは不必要だということです。しきたりや他人がどうこうとか、懺悔だの、お布施だの、お盆だのはどうでもいいということです。こういう場合、その「私」というものがしっかりとなければ、神だろうか悪魔だろうがお稲荷さんだろうが、向こうに回すことは不可能なのです。そのお父様は昭和一桁世代なので、敗戦後に価値観がひっくり返る中でそれを獲得されたのでしょう。

 明治の末とは、四民平等は名ばかりで不条理なまでの階級差、貧富の差の激しい社会です。日清、日露の戦争の坂を駆け上がって行く時、金持ちや政府高官が、時代劇の悪代官並みの悪いことを平気でたくさんやっていた、そういう悪もひっくるめて、戦争の大義名目なかに誤魔化されていくわけです。足尾の鉱毒も対ロシア戦に必要不可欠な銅の産出の為には、ひどい公害も見て見ぬふりです。戦争の為に巨大な悪が平然と為されている時代とは、何かがおかしいと思っても正義をあきらめて妥協しなければ生き抜けない、かつて背負ってきた倫理観を丸ごと捨てなければいけないほどの、無責任社会だったと思います。それが蝕むものは田畑だけでなく、見聞きした全ての人の精神だったでしょう。そういう中で唱える非戦・反戦とは、ある意味、大きな「私」の自覚無しにはできなかったのだと思います。

 あまりにも「私」の自我が大きく強かった太平洋食堂の面々は手痛いしっぺ返しを食らって絞首台の奈落へと突き落とされるのですが、それを百年経って俯瞰している私の「私」とは何なのか?(やっと、話が戻った)誠之助の事を思い資料を再読しながら思うのです。 この中で一番大きな問題は被差別をどのように捉えるか?という事の一つの答え。「無暗に憐れむ事の差別」です。憐れんでいる対象を自分と同じ人間として尊敬できるのかどうか?非常に困難です。

 そして誠之助や荒畑寒村、管野スガらが連帯した、アンチ遊郭設置。これは話題沸騰の「従軍慰安婦問題」と同じ根っこです。
 人数やら強制やら、そういう「歴史的事実」のようなものが何を弁済するのか知りませんが、要するに、性の捌け口として強制されてその職にあたっていた「彼女ら」を、自分と同じ人間存在として痛みを分かちあえるかどうか?一日に夥しい数の男性の性欲処理をするという非人間性。それに軍が関与したかどうかというより、そういうものを必要とし生み出す戦争というものをどれほど罪悪だと思えるか?男性にも実際に具体的にその行為を想像してほしいのです。多くの兵士の中の一人という立場でなく、それをされる側という立場の酷さを。人間が人間を差別する最悪なものだったのではないでしょうか?

 それらにNOと言うことは当たり前のような気もしますが、明治の末から日本は変わっていないようですなあ。
 誠之助の兄の余平さんが息子に語った言葉で「美しい国」が出てきます。「伊作よ、人の為に生きるということは素晴らしいことである。この日本と言う国に天国を持ち来たらそう。全てが心の麗しい人に満たされた美しい国を作ろう。」この美しい国とは、ほんとうに遠い国のような気がしました。

 御蔭様で、月一リーディングは現在、満席となっています。御事情とお時間がございましたら是非、アーカイブをご利用下さい。 そして、何より、来年7月の本番を御期待下さ・・・・忘れないでね!!

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