太平洋食堂

太平洋食堂旅行記

日時2011年06月13日      テーマ熊野・新宮・太平洋食堂

熊野行 その5 最終章-3嶽本 あゆ美

 紀伊半島には原発はありません。原発反対に携わった「大逆事件を顕彰する会」の方によれば、「痩せ我慢」だそうですが、その志の高さは百年単位での未来を見通す力になったと言えるでしょう。「新宮は病院も少ないし、雇用も減る一方だ。経済もアカン中で、何かあるかと言えば文化位かな」とおっしゃった佐藤春夫記念館の辻本先生の話が忘れられません。地方の衰退と原発問題は別の次元で語られるべきですが、と或る時点から2型糖尿病と糖尿病治療薬、高血圧と降圧剤みたいな一蓮托生な関係になっています。薬と手を切るには、口に入れる物や生活の全て、つまり生き方を根本的に変えない限りあり得ませんし、それをしないなら、一生薬に頼るしかないわけです。

 大逆事件以降、新宮という町はひたすら「恐懼」し、沈黙を強いられて来たのですが、事件後50年を経た頃より、その硬い岩盤を破り発言する人が市民の中で出始め、そして今年は百年の桎梏から解き放たれて、大石を「名誉市民」として市議会に請願するまでに至ったわけです。「くまの文化通信」誌にはその請願は市議会で「カンカンガクガク、延べ何十時間の論戦にもなり、新宮の町は「恐懼せず」になったと言える」とあります。その積み重ねられた言論の厚みこそが新宮の文化であり、神武の神話時代から語られた「熊野」という風土から立ち昇る反中央、反権力の焔だと言えます。

 太平洋に面した町の違いとは?

 私は仕事で房総半島の館山にもよく行きます。そこも半島の先っぽ、昔はクジラも捕った漁師町で、人々はやはり沢山アメリカへと渡りました。とても気持ちの良い町です。太平洋の荒々しさは、新宮にちょっと似ていますし、外部の人達を受け入れてくれる所は、とても共通していますね。でも周りは平野に囲まれ、広々とした解放感はカリフォルニアという感じでしょうか。それに幹線道路が発達していて、孤絶感は感じません。

 熊野川の河口、三方を山塊に阻まれ、熊野灘へと向かうしかないあの町は、半島から解き放たれたいと渇望する細胞のようです。対岸のアメリカへと向かうベクトルは、明治時代には今よりも鋭かったでしょう。高台にある神倉神社から見下ろした街並みは穏やかな潮風に揺れていましたが、振り返って仰ぎ見る空は、そそり立つゴトビキ岩に塞がれ息苦しささえ覚えます。人など居なかった時代、天空を目指し、エレクトしたものの大地から離れ得なかった巨大な男神の一部・・・そのゴトビキ岩は、二月の御燈祭りには松明を持った二千人近い男達で埋め尽くされます。新宮で生まれ育った男なら、一生の間に三、四十回は松明を持ってその急斜面の石段を駆け下りる・・・・・何か出来すぎで溜息ものですね。

 まだ書き足りないようなキリがないような・・・又会う日まで、新宮よ、しばしさようなら。今も息づく熊野の魂に嬲られ、脳ミソの火照りが消えない私でした。

 「熊野行」 終わり

 そろそろ、本格的に19世紀の寒いロシアに戻ります。

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