太平洋食堂

太平洋食堂旅行記

日時2011年06月12日      テーマ熊野・新宮・太平洋食堂

熊野行 その5 最終章-2嶽本 あゆ美

 その病院は後光が差していました。まあ美しいこと。太平洋を見下ろす小高い丘の上、ヒマワリ畑のある全室オーシャン・ビューの病院には、キラキラ輝く笑顔の理学療法士の先生が沢山いました。マンツーマンのど根性リハビリの手厚さに、「脳幹のMRI画像的には死んでいます」と言われた左半身麻痺の父は、最初の二月で胃ろう以外に口から食事を取りはじめ、気管切開のカニューレ状態でも発声ができるようになり、椅子から立ち上がれるようになり、結局、退院時には会話ができ、車いすからトイレの便座に移乗ができるようになりました。ついでに気管切開のカニューレが取れて胃ろうも外しちゃいました。自宅にいる今、普通に食事をし、歩けないながらも自分でベッドから車椅子に移る事もできます。リハビリの勝利です。理学療法士の皆様にいくら感謝しても足りないし、半年間、病院に通い続けた母のど根性に恐れ入りました。断っておきますが市立病院です。そして海辺を見れば1キロ圏内の浜岡原発の塔が光っておりましたし、見舞いに行く度に騒ぐ子供を、原発施設の無料のアイマックス・シアターに連れて行ったものです。そこには、原寸大の原子炉の模型があって、随分と勉強させて頂きました。

 つまり私は原発の恩恵を受けまくったわけです。あえて、父を選択肢内のリハビリの無い療養病床に入れて国の制度に従うというのもありましたが、母の懇願でアナーキーにも医療連携室に逆らって、ダィレクトに病院探しをしました、というか急性期の病院で「勝手にやれば」と言われたからです。市会議員やら病院の理事だの、色々と口添えをしてくれる人もいましたが、国のルールを覆すというのはそれほど簡単な事ではありません。NTTに勤めていた父は昔、社会党でしたが、退職後はどっぷり自民党員です。選挙ではせっせと地元の利益の為に頑張ってましたが・・・・
 運よく巡り合えたリハビリ病院のセンター長さんは、私の泣き落としを聞く耳を持ってくれました。というかそういう余裕があったんですね、その病院の財政基盤には。そしてリハビリに関する施設やらマンパワーの充実は、静岡県西部では一番でしょう。見舞いに来る年寄りはみな、自分もダメになったらここに入りたいと口ぐちに言うとりました。私も子供連れで実家に通うのが疲れてくると、自分もそこに入院したいなあという誘惑にかられました。(つづく)

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