太平洋食堂

太平洋食堂旅行記

日時2011年05月24日      テーマ熊野・新宮・太平洋食堂

熊野行 その4嶽本 あゆ美

 まだまだ続きます。だんだん長くなって済みません。

 熊野二日目は、新宮から更に奥の本宮に近い請川の祐川寺にお邪魔しました。朝、中田さんの奥様に車で送って頂き、勝浦からはほぼ一時間で川湯温泉も近い請川に到着。途中の熊野川の風景は、世界遺産にふさわしいすんばらしい山河でした。ここに迷い混んでというか、逃げ込んだら、自衛隊が山狩りしても見つかりそうもありません。この川をユラユラ下っていったら、どんなに楽しかろうと思いました。昔は本宮から材木を筏に組んで、河口の新宮へと流していったそうです。

 請川の祐川寺は曹洞宗の御寺で、ご住職は丹羽達宗さんです。丹羽さんはここで三十年以上もご住職を為されていて、「本宮町大逆事件の犠牲者の名誉回復を実現する会」の会長をなさっています。(本宮町は市町村合併で今は田辺市です。)

 犠牲者の二人、成石兄弟はこの祐川寺の檀家でした。その縁で丹羽さんは顕彰活動に取り組んでいるそうです。前日はお茶摘みとその茶葉の加工で忙しかったと語りながら、手ずからほうじ茶を入れて下さる丹羽さんは、柔和で静かな佇まいの禅宗僧侶そのものでした。奥様も本当にもの静かな方で、お寺の中は穏やかで静謐な祈りに満ちていました。

 大逆事件当時、請川村には成石勘三郎と平四郎の兄弟が住んでおり、兄は雑貨商で若くして村会議員を務めるなど温厚でまじめ、弟はやんちゃで筏師もやり正義感が強いというそれぞれ際立った個性の二人でした。弟が新宮の大石誠之助らと交流していたことから、大逆事件に巻き込まれ、誰の目にも冤罪は明らかでしたが、弟は死刑、兄は無期懲役となりました。兄は社会主義にも革命にも関係ない人でした。村人達は助命嘆願を2度も必死でやりました。それだけ惜しまれた人だったのでしょう。

 明治時代、予審調書といって検事が取り調べの際に作成した作文が、全ての証言よりも優先されました。勝手に作文されても、それを読み上げることは厳正にはされなかったので、何を書かれても裁判慣れしていない人(慣れてる方が変)は知りえなかったのです。それで、裁判になって「それは違う」と言ってももう後の祭り。しかも刑法第73条・大逆罪は一審のみで控訴がなく死刑か無罪、デッド・オア・アライヴです。おまけに予備・陰謀行為も正犯(犯罪の実行)とされたそうで、もしも暗殺計画のシナリオを書いたらその時点で死刑ですね。それが芝居のシナリオだったとしても、それを確実に証明できなければ死刑です。ああ恐ろしい。

 特赦で死一等を減じられて無期懲役となった兄の勘三郎は、監獄で写経や作業に勤しみました。寺にはその写経が納められていて、実際に手にとって見せてもらいました。几帳面な字でびっしりと大学ノート三冊に書かれた経文に、堪えざるを堪えてきた勘三郎の精神が宿っているようです。獄中にいる間に頼りの長男も亡くし、勘三郎は悲しみのどん底でも生き抜いて、服役18年の末に釈放されました。 その後、1年8カ月で病没。
 二人の名誉回復は2004年、丹羽さんら「顕彰する会」の働きかけで、本宮町町議会にて全会一致で議決されました。事件から九十年余にようやく名誉回復された二人の遺家族は、ずっと息をひそめ苦難の人生を送ってきたとのことです。その苦労の重さは如何ばかりか、推し量る事さえつらいです。

 成石家のお墓は、寺から十分ほどの山の斜面に固まってひっそりと祀られています。ご住職、福山さん、途中から合流した中田さんと共に墓参し、二人の冥福を祈りました。

 線香の漂う中、丹羽さんの読経に百年の孤独、百年の悲しみが僅かながらも融けて行くようでした。多くの無期懲役となった犠牲者の中には、僧侶であっても自ら命を絶った人、勘三郎のように生き抜いた人と様々な人がいます。丹羽さんに、「何故、勘三郎は生き残れたのか?」と聞いてみました。「彼は監獄を出た後の自分を、思い描くことができたのでしょう。」

 頂いたお答を胸に抱えて、静かな山寺と成石兄弟に別れを告げました。

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